| 霊気比較サイト > 東洋医学の歴史C日本での東洋医学発展と衰退 |
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| 曲直瀬道まなせどうさんが完成させた日本式の東洋医学 |
| 日本では、朝鮮半島経由、あるいは、遣隋便や遣唐使によって7世紀ごろ中国から直接に、中国伝統医学が伝えうれた。 大宝律令(701年)では「医疾令いしつりょう」という医療制度が制定されたが、唐の制度にならったもので、医学教育の教科書も中国のものが使われた。平安時代には、中国の医学書を日本人が使いやすいように編纂するようになった。代表的なものは丹波康頼(たんばのやすのり)の『医心方いしんほう』(984年)で日本最古の医書といわれる。隋、唐、朝鮮の医書類からの引用で構成されている。中国の医書をもとに、日本の医学も発展していったが、室町時代になると中国(明)にわたって医術を学ぶ医師があらわれた。 戦国時代の曲直瀬道三は、各地の戦国大名、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康にも重んじられた名医である。 明にわたって李朱医学を修めた田代三喜に師事した。その後、弁証論治(へんしょうろんち)による診断法と治療をまとめた『啓廸集けいてきしゅう』を著し、中国医学を日本向けに整え、江戸時代まで引き継がれた。 江戸時代初期、ちょうど中国で『傷寒論』が再評価されるようになり、日本でも儒学者を中心に古典への傾倒がおこった。原典である『傷寒論』を重視する流派を古万派(こほうは)という。これに対して、宋・金・元の時代の医学を重視する流派を後世派という。 方証相対(ほうしょうそうたい)の誕生と日本の漢方医学の衰退 江戸時代中期には、中国伝来の東洋医学が日本式に大きく変化した。古方派の吉益東洞(よしますとうどう)は、方証相対という理論を構築した。東洋医学の基礎となる陰陽説や五行説は客観的な判断には使えないと考え、症状ごとに決まった処方をあてはめて、理論より実践を重んじた。方証相対は日本中に広まり、江戸時代後期に曲直瀬流の医学はいったん衰退する。しかし、幕府につかえる医師たちは、宋時代の医学を基礎にした、考証学派を構築していく。 幕末から明治にかけて活躍した浅田宗伯(あさだそうはく)は、最後の漢方医学者といわれる。 方証相対と考証学派の両方の医学を修め、幅広い視野をもち、幕府の要人や海外の公使の治療を行った。 江戸中期の『解体新書』の出版以来、オランダ医学が日本の医学の主流になっていった。さらに、明治政府はドイツ医学を正式に採用したため、漢方医学は正統の医学としては扱われなくなった。 方証相対は方証一致ともいわれる。証の名前が直接、処方の名前となるため、たとえば葛根湯証という言い方をする。 これは中医学の証の名称とは異なる。 古墳時代〜奈良時代 (?〜784) 413 新羅より医師・金武が来日して天皇の病気を治す。 459 高麗から医師・徳来が来日し、代々、難波に住むようになる。 554 百済から採薬師が来日。 701 大宝律令制定。「医疾令」が公布される。 平安時代 (794〜1191ごろ) 808 出雲広貞、安倍真直らが『大同頬緊方』を編纂。日本初の医書。 984 丹波康頼が『医心方』を著す。現存する日本最古の医書。 鎌倉時代 (1185ごろ−1333) 1303ころ 梶原性全が医学全書の『頓医抄』を編纂。 室町時代 (1336ごろ〜1573ごろ) 1498 田代三喜が李東垣、朱震享の医学を学んで明より帰国。 安土・桃山時代(1568ごろ−1600ごろ) 1574 曲直瀬道三が『啓廸集けいてきしゅう』を著す。啓廸院をもうけて医学教育の場とする。 江戸時代 (1603〜1867) 1703 「経絡図説」出版 1709 貝原益軒が『大和本草』を著す。 江戸中期 古方派の先駆者、後藤艮山が活躍。「一気留滞説」を提唱。香川修庵、山脇東洋はじめ多くの門人を育てた。 1722 幕府、小石川薬園内に養生所をもうける。 1759 山脇東洋が『蔵志』を著す。 日本最初の人体解剖記録。 1765 吉益乗洞が『類緊方』を刊行。「万病一毒説」をとなえ、方証相対 を確立した。 1765 多紀元孝が臍寿館(医学館)をおこし、考証学派を広めた。 1774 前野良沢、杉田玄白らが『解体新書』を翻訳・刊行。 1806 多紀元簡が『素問識』を著す。徳川家斉の侍医もつとめる。 1853 浅田宗伯が『脈法私言』を著す。幕府の侍医として活躍するほか、 フランス公使ロッシュの難病も治療した。 明治・大正 (1868〜1926) 1895 帝国議会において漢方医学存続の議案否決。 1910 和田啓十郎が『医界之鉄椎』を著し、漢方復興が高まる。 昭和 (1926−1989) 1957 小太郎漢方製薬が漢方エキス製剤の生産を始める。 1967 医療用漢方製剤が健康保険適応となる。 平成 (1989〜) 2001 医学部におけるコアカリキュラムに和漢薬の項目が入る。 『解体新書」はドイツ人医師クルムス著で、オランダ語訳が『ターヘル・アナトミア』。 杉田玄白はオランダ語を解さず、翻訳作業の中心は前野良沢だったといわれる。 東洋医学の歴史・日本と中国の現状 明治維新後の苦境を乗り越えて注目を集める日本の漢方 漢方医は明治維新後、西洋医学を修めて医師免許を取得しなければ、医師として開業できなくなった。漢方医学は、いったん表舞台から引き下がることになった。しかし、漢方医学を継承する人たちは途絶えることなく、政府へのはたらきかけや教科書の出版などの活動を続けた。 1957(昭和32)年、小太郎漢方製薬が漢方エキス製剤を初めて製造・販売した。 煎じる手間がかからないことから、服用する人や扱う薬局が増えた。 1967年には医療用漢方エキス製剤4品目が薬価収載されて初めて保険適用になった。 1976年には41処方・54品目が追加収載された(現在では148処方・848品目が保険適応)。 保険で扱われるようになってから、漢方薬は一気に市場にひろがった。その後、西洋医学では完治しにくい慢性病や不定愁訴(ふていしゅうそ)などに東洋医学が効果があることが再認識されてきた。2001(平成13)年には、医学部教育に東洋医学が取り入れられ、東洋医学を学んだ新しい世代の医師の医療現場での活躍が期待される。 中医学として中国国民に深く浸透 中国では、1912年に中華民国が成立後、新政府は西洋医学を重視し、中国伝統医学の立場は弱くなった。 しかし、1949年の中華人民共和国成立後は、伝統医学と西洋医学を共存させる方針をとった。伝統医学は「中医学」という名称になり、全国各地に中医学の診療機関が設けられることとなった。理論が体系化され、1958年には最初の教科書『中医学概論』が出版された。 現在は、中医学と西洋医学を同時に重視することが憲法に盛り込まれており、伝統医学を行う中医師と西洋医学を行う医師と2つの資格が併設されている。 2003年に流行したSARSに対して、中医学は高い治療効果を収め、SARS撲滅に大いに貢献した。中医学は中国国民にとって、たいへん身近なものであり、なくてはならないものとなっている。 中国政府はWHOと連携し、海外の医師のために多くの鍼灸研修センターを開設し、30数年にわたって鍼灸医学の世界への普及・啓蒙をはかってきた。現在100以上の国で鍼灸治療が行われており、世界各国における代替医療の推進に大いに貢献している。また、鍼灸の分野で中国最大の規模を誇る天津中医薬大学第1附属病院では、難治性を含むさまざまな疾患に鍼灸治療が施されている。海外からも多くの医師が研修に訪れている。 明治になってから、大学の薬学部では、生薬成分の研究が盛んに行われた。 たとえば、1885(明治18)年、長井長義は、生薬の麻貴からエフェドリンという成分を抽出した。 医学部医学科の教育状況 国立 公立 私立 授業料日を軽けている 大字 42 8 29 漢方 42 8 29 鍼灸 9 4 講座などの設置 38 7 26 (2008年 文部科学省の調査) (2007年の日本医学教育学会大会ワークショップでの提示) 一般目標 患者のニーズに即した全人的医療を行うために、東洋医学と西洋医学の相互補完性を認識し、漢方医学への関心を深め、漢方医学の基礎的知識および技能を身につける。 到達目標 漢方の専門家を育成するのではなく、東洋医学と西洋医学両者を組み合わせることで、最善の医療を提供する医療人の育成を目標とする。(『医学教育2008年第39巻第2号』より) |
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